No,545
もっと気楽に生きてもいいじゃない
先週末、左手の手首をひねってしまって以来、手首の痛みが止まらない。
加えて、昨日種まき作業を張り切り過ぎたようで、腰までおかしくなってしまった。
とにかく手首は日常生活上支障をきたしてきており、どうにもならなくなってきたので、あまり期待は出来ないけれど馴染みの整形外科へ行って診てもらうことにした。
待ち時間、やはり1時間。
実力がありながらも、とても丁寧な診察で、私もかなり信頼している先生なので、診察待ちに時間がかかるのは覚悟をしていったのだった。
今日はそんなわけで昨日図書館で帰り際に目に付いて借りてきた曽野綾子さんの
を読んで待ち時間を過ごしていた。
曽野綾子さん信者はうちの母もそうだが、年配の女性に多く、そのお名前は何度も聞いていた。
でもこうして本を手に取ったのは初めてだった。
この本は、これまでの曽野綾子氏の著作からのさしずめ名言集といったところだろうか。
幾つか琴線に触れる文章があったのでちょっとだけ書きとめておこうと思う。
『長生きした分だけ私は修行を積んで悟るところがあった、はずなのだが、自分に対して皮肉を言えば、修行の結果悟ったのではなく、年を取ったおかげで、世の中を複眼で見る技術を覚えただけのような気もする。
しかし多分、人生には、確固とした答えなどない、ということは間違いないのだろう。どっちが少しましか、ということだけだ。だから、誰の生き方も、一応犯罪さえ犯さなければ、全て成功なのである。犯罪は、見つからなかったら成功、なのではない。犯罪は、犯さなくて済んだならそれだけで大成功、なのである。犯そうという思いが心をよぎることがあっても、それは恐れるに足らない。人間には誰にもそんな瞬間がある。』
「苦しかったら、苦しいって言えばいいのよ。がまんしなくていいのよ。泣きたかったら泣くのよ。苦しかったらうんうんいいなさい。ガマンなんて、別に美徳じゃないわよ」
『人間は多かれ少なかれヒビの入った茶碗に似ている、とそういう人々(私もその一人だが)は考える。無理をすると割れてしまう。だから穏やかにやれることだけをやり続けても救済の道には向かっているのだ。』
『私たちは自分が弱いときに初めて、どう生きたらいいかということが見えてくるのです。普通なら、自分がどんなに強くて耐えられる人間か、自分は耐えるということにおいて人並み以上であり、いかに人とは違っているかということを誇ります。しかし、そうではなく、人間は弱くなっているとき、病気になっているとき、気がめいって落ち込んでいるようなときに初めて、その次の段階が見えます。』
『荒っぽい言い方だが、幸福を感じる能力は、不幸の中でしか養われない。苦労を知らないと、すべてがよくて当たり前で、少しも幸福感と結びつかない。』
『自然の死に対して、死と抵抗しようという動きが一方にある。生命科学の発達は、あらゆる場で、人間を病気と死から、健康と不老・不死の方向に向かわせる。軽薄にも人間は、ほんの一瞬、死を前にすると、不老・不死こそ、究極の幸福と思いそうになる。(中略)
しかし不死も不老も私には怖い。個人としての不死は、いかなる重大な刑罰よりもひどいだろうと思う。死は一つの優しい解放であり、許しであり、休息なのに、それが永遠に与えられないということになったら、それは刑罰の最たるものだ。』
『女は他人も共に自分と同程度に不幸だと思うことで慰められる。しかしそれもいいだろう。そんな簡単なことで慰められれば結構だ、と間庭は思った。』
『健全なる肉体には、健全な精神が宿る率はきわめて少ないことを、協子に教えようかと思いながら、公文は黙っていた。それは昔から誰もが思っていながら、皆、なかなか口に出さないことであった。健全なる肉体に、単純な精神が宿る率はかなり多い。それはそれで悪くない。この世には、あらゆる精神のパターンが必要なのである。』
『人はいいことはすべて忘れて、それを当然と思う。悪いことだけは長く覚えていて決して許さない。残忍なものだ。』
『仕事に命をかけるなんて、実に威勢のいい言葉だけど、それは本当に、命をかけていない時に言うと、ちょっと悲愴でいい感じなんだ。だけど本当に死んでしまったらね、みんな心ひそかに、死ぬくらいなら、やらなきゃよかったのにって思うのさ。』
『「えらい人」の前へ行くと、あがったり、感激したり、身がすくんだり体裁のいいことをいおうと思ったりする人は、決してへりくだっているのではなく、その人自身がやはり一種の俗物、弱い権力主義者なのである。人間であれば、服装とか、社会的地位とか、年齢とかにかかわらず、人間そのものに対する尊敬と親しさをこめた言葉で誠実に語ることが出来るはずである。』
長くなってきたので、今回のところはこの辺にしておこう。
曽野氏が年配女性に支持を受けているのは、多分・・・自分にも相手にも厳しくないからなのだろう・・・と少し読んで思った。
自己啓発系の本は巷に溢れんばかりあるけれど、散々読んできて思うが、結構最近ではウンザリ気味に感じることがよくある。
人間、そんなに頑張らなくてもいいんじゃない、そんなに完璧にやっていたら疲れがすぐに出るんじゃない・・・と思うようになったのは、それだけ年をくったせいかもしれない。

加えて、昨日種まき作業を張り切り過ぎたようで、腰までおかしくなってしまった。
とにかく手首は日常生活上支障をきたしてきており、どうにもならなくなってきたので、あまり期待は出来ないけれど馴染みの整形外科へ行って診てもらうことにした。
待ち時間、やはり1時間。
実力がありながらも、とても丁寧な診察で、私もかなり信頼している先生なので、診察待ちに時間がかかるのは覚悟をしていったのだった。
今日はそんなわけで昨日図書館で帰り際に目に付いて借りてきた曽野綾子さんの
![]() | 必ず柔らかな明日は来る 曽野 綾子 (2003/03) 徳間書店 この商品の詳細を見る |
を読んで待ち時間を過ごしていた。
曽野綾子さん信者はうちの母もそうだが、年配の女性に多く、そのお名前は何度も聞いていた。
でもこうして本を手に取ったのは初めてだった。
この本は、これまでの曽野綾子氏の著作からのさしずめ名言集といったところだろうか。
幾つか琴線に触れる文章があったのでちょっとだけ書きとめておこうと思う。
『長生きした分だけ私は修行を積んで悟るところがあった、はずなのだが、自分に対して皮肉を言えば、修行の結果悟ったのではなく、年を取ったおかげで、世の中を複眼で見る技術を覚えただけのような気もする。
しかし多分、人生には、確固とした答えなどない、ということは間違いないのだろう。どっちが少しましか、ということだけだ。だから、誰の生き方も、一応犯罪さえ犯さなければ、全て成功なのである。犯罪は、見つからなかったら成功、なのではない。犯罪は、犯さなくて済んだならそれだけで大成功、なのである。犯そうという思いが心をよぎることがあっても、それは恐れるに足らない。人間には誰にもそんな瞬間がある。』
「苦しかったら、苦しいって言えばいいのよ。がまんしなくていいのよ。泣きたかったら泣くのよ。苦しかったらうんうんいいなさい。ガマンなんて、別に美徳じゃないわよ」
『人間は多かれ少なかれヒビの入った茶碗に似ている、とそういう人々(私もその一人だが)は考える。無理をすると割れてしまう。だから穏やかにやれることだけをやり続けても救済の道には向かっているのだ。』
『私たちは自分が弱いときに初めて、どう生きたらいいかということが見えてくるのです。普通なら、自分がどんなに強くて耐えられる人間か、自分は耐えるということにおいて人並み以上であり、いかに人とは違っているかということを誇ります。しかし、そうではなく、人間は弱くなっているとき、病気になっているとき、気がめいって落ち込んでいるようなときに初めて、その次の段階が見えます。』
『荒っぽい言い方だが、幸福を感じる能力は、不幸の中でしか養われない。苦労を知らないと、すべてがよくて当たり前で、少しも幸福感と結びつかない。』
『自然の死に対して、死と抵抗しようという動きが一方にある。生命科学の発達は、あらゆる場で、人間を病気と死から、健康と不老・不死の方向に向かわせる。軽薄にも人間は、ほんの一瞬、死を前にすると、不老・不死こそ、究極の幸福と思いそうになる。(中略)
しかし不死も不老も私には怖い。個人としての不死は、いかなる重大な刑罰よりもひどいだろうと思う。死は一つの優しい解放であり、許しであり、休息なのに、それが永遠に与えられないということになったら、それは刑罰の最たるものだ。』
『女は他人も共に自分と同程度に不幸だと思うことで慰められる。しかしそれもいいだろう。そんな簡単なことで慰められれば結構だ、と間庭は思った。』
『健全なる肉体には、健全な精神が宿る率はきわめて少ないことを、協子に教えようかと思いながら、公文は黙っていた。それは昔から誰もが思っていながら、皆、なかなか口に出さないことであった。健全なる肉体に、単純な精神が宿る率はかなり多い。それはそれで悪くない。この世には、あらゆる精神のパターンが必要なのである。』
『人はいいことはすべて忘れて、それを当然と思う。悪いことだけは長く覚えていて決して許さない。残忍なものだ。』
『仕事に命をかけるなんて、実に威勢のいい言葉だけど、それは本当に、命をかけていない時に言うと、ちょっと悲愴でいい感じなんだ。だけど本当に死んでしまったらね、みんな心ひそかに、死ぬくらいなら、やらなきゃよかったのにって思うのさ。』
『「えらい人」の前へ行くと、あがったり、感激したり、身がすくんだり体裁のいいことをいおうと思ったりする人は、決してへりくだっているのではなく、その人自身がやはり一種の俗物、弱い権力主義者なのである。人間であれば、服装とか、社会的地位とか、年齢とかにかかわらず、人間そのものに対する尊敬と親しさをこめた言葉で誠実に語ることが出来るはずである。』
長くなってきたので、今回のところはこの辺にしておこう。
曽野氏が年配女性に支持を受けているのは、多分・・・自分にも相手にも厳しくないからなのだろう・・・と少し読んで思った。
自己啓発系の本は巷に溢れんばかりあるけれど、散々読んできて思うが、結構最近ではウンザリ気味に感じることがよくある。
人間、そんなに頑張らなくてもいいんじゃない、そんなに完璧にやっていたら疲れがすぐに出るんじゃない・・・と思うようになったのは、それだけ年をくったせいかもしれない。
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